シリーズ:歴史に学ぶ(1) -殷の紂王と斉の景公-

このシリーズでは、歴史上の人物や故事、古典等から、経営や生き方の「学び」にしたい情報をピックアップし、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

シリーズ第1回となる今回は、「殷の紂王(いんのちゅうおう)」と「斉の景公(せいのけいこう)」という古代中国の二人の君主についてのお話しです。

①殷(紀元前17世紀頃~紀元前1046年頃)とは王朝名であり、紂王とは殷の30代目の君主で、容姿は美しく、頭も非常に良く、体格に優れて身体能力も高い、まさに一個人としては完璧と言っても良いような人物です。

②斉とは、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)という、群雄割拠の戦乱の時代に数多存在した国の一国で、景公とは25代目の君主で、子供っぽいところがあり、好悪で物事を判断し、贅沢好きで遊んでばかりおり、酒に酔っては礼を失するといったありさまのどうしようもない人物です。

さて、ではこうした正反対と言ってよい殷の紂王と斉の景公の統治下での、それぞれの国の行末は如何に?、普通は殷は大いに栄え、斉は衰退したと考えるのではないでしょうか?、しかし結果は全く逆でした。

殷の紂王は確かに一個人としては非常に優れた人物でした。しかし、それだけに周囲の者が馬鹿に思えてしまい、それを臣下に諌められても巧みな弁舌で煙に巻いてしまい、国を憂い何度も紂王の失政を諌めた三人の賢臣(「微子啓(びしけい)」「箕子(きし)」「比干(ひかん)」)の諌言を全く聞かず、ついに微子啓は王朝を去り、箕子は幽閉され、比干は殺されてしまいました。

そして、周囲を自分に佞ねる佞臣(イエスマン)で固め、政治を恣にした紂王は、西方で急成長を遂げた周(紀元前1046年頃~紀元前256年)という勢力に攻められて、自身は殺され、彼の王朝は亡んでしまいました。

一方で、斉の景公は後世の歴史家たちにたびたび暗君と批判される、凡庸でどうしようもない人物でした。しかし、この当時斉の国には、晏嬰(あんえい)という名宰相がおり、この晏嬰という人物は、自分の意見をあまりオブラートに包まずズバズバ言うタイプで、景公を何か間違いを犯すと、その度にこれを強諌(強く注意すること。)しました。ここで紂王であれば激怒して晏嬰を殺してしまうところでしょうが、景公という人物は紂王のようなワンマンさはなく、不思議と晏嬰を遠ざけることも殺すこともなく、その意見を重んじました(と言っても、景公という人は、その場で反省してもそれをすぐ忘れてしまう性質のようで、何度も晏嬰に同じような注意をされてしまうところも、後世暗君として批判される所以なのかもしれませんが…)。

そして、こうして晏嬰の補佐を受けて景公が治めた斉の国は、安定した栄華期を迎えることになりました。

これは決して景公のようなトップが理想的という話ではありませんが、しかし、組織のトップの主たる命題が組織を維持し成長させることにあるとするなら、一個人としては完璧ともいえる、しかしどこまでもワンマンであった紂王は、組織のトップとしては、一個人としてはどうしようもないお坊っちゃんの景公にも劣るということになります。

もちろん決断力が無いというのは困りものですが、ただ、トップの行き過ぎたワンマンは組織にとって何よりも大きな害となるということも、頭の片隅に置いておかれても良いのではないでしょうか。