シリーズ:歴史に学ぶ(3) -斉の威王と魏の恵王-

シリーズ第3回となる今回は、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)、その後半部分である戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)の二人の王、斉の威王(せいのいおう)と魏の恵王(ぎのけいおう)について取り上げてみたいと思います。

そもそも、春秋戦国時代とはどういう時代だったのか?、実はこの時代、まだ前王朝の殷(紀元前17世紀頃~紀元前1046年頃)を倒して新たに建てられた周(紀元前1046年頃~紀元前256年)という王朝が存在していました。しかし、この周王朝が実質的に王朝として機能していたのは初期から中期にかけてまでで、それ以降は周王朝の威光は地に墜ち、諸侯は周王の指揮を離れ相争う戦乱の時代へと突入しました。

日本の戦国時代を想像していただくとイメージしやすいと思います。日本の戦国時代も、まだ室町幕府が存在しましたが、応仁の乱によりすでに幕府はその権威を失っており、足利氏の指揮を離れた戦国大名(諸侯)が群雄割拠し相争う戦乱の時代でした。

ただ、春秋戦国時代が周王朝の威光が地に墜ち諸侯が相争う戦乱の時代といっても、その前半戦である春秋時代にはまだ周王朝の権威がかすかに残っており、一部例外はありましたが諸侯は一応周王に遠慮して「王」を名乗ることはありませんでした。しかし、後半戦の戦国時代に突入すると、周王のそんなかすかな権威さえ失われ、諸侯が次々と「王」を名乗り始めました。

また、周王朝建国の際には約三百存在したと言われる諸侯(封国)も長い戦乱の間に淘汰され、戦国時代には有力な七国(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の戦国七雄)といくつかの小国を残すのみとなっていました。まさに秦の始皇帝による統一前夜といった様相です。

前置きが長くなってしまいましたが、斉の威王と魏の恵王とは、こうした戦国時代の初期から中期かけて存在した戦国七雄の君主で、特に斉の威王は名君として名高い人物でした。この二人については面白い逸話があります。

魏の恵王は、あるとき会見の場で斉の威王にこう問いました。

「ところであなたはどのような宝をお持ちですか?」

これに対して威王は「持っていません」と答え、これを聞いた恵王は「小国の君主である私でさえ巨大な珠玉(真珠や宝石)を十個持っているのに、大国の君主であるあなたが宝を持ってないことはないでしょう」と言いました。

そこで威王は次のように応えました。

「そもそも私の『宝』はあなたの言う『宝』とは違います。私には檀子(だんし)・盼子(はんし)・黔夫(けんぷ)・種首(しょうしゅ)という4人の臣下がおり、彼らはよく国を守り、よく国を治めています。私にとっての『宝』とは彼らなのです」※意訳

これを聞いて恵王は自分が恥ずかしくなり、逃げ去ってしまいました(ちなみに、ここで恵王は自分を小国の君主と言っていますが、実は戦国時代初期は魏のみが突出した強国で他の六国はその後塵を拝しているという時代であり、そういった背景を踏まえてこの話を見ると、また違った色合いが見えてくるのではないでしょうか)。

ところで、戦国中期に入ると、戦国初期には突出した強国であった魏が没落し、代わって急成長を遂げた秦と斉が二大強国として君臨する時代になりました。では、なぜ魏が没落し、秦と斉が急成長を遂げたのでしょうか。これについては、秦の商鞅(しょうおう)という政治家と斉の孫臏(そんぴん)という兵法家が大きく関わっています。ここでは詳細は省略しますが、秦は商鞅の法制改革により、斉は孫臏の兵法を活用した軍事行動により一躍強国となり、地理的に秦と斉に東西から挟まれる形で存在していた魏は、急成長した両国に圧迫され次第に没落していきました。

この秦に仕えた商鞅と斉に仕えた孫臏ですが、実は二人とも宝自慢をして大恥をかいた恵王の時代に魏にいたことがあり、恵王には商鞅と孫臏を登用して、彼らの力を活用して魏の覇権をより盤石なものとするチャンスがありました。しかし恵王はそのチャンスを逃し、結果として商鞅と孫臏は他国へ去り、結果として魏は没落したのです。そして、両国の圧迫により、ついに恵王は首都さえ維持できず遷都に追い込まれました(ただし、孫臏については恵王の預かり知らないところで他国に去ってしまいましたので、これについてまで恵王の責任を問うのは若干酷かも知れません。しかし、恵王が普段から人材の発掘・登用に熱心であれば、また違った結果になったのではないでしょうか。なお、商鞅が去った件については全面的に恵王の責任です)。

これが物を誇った人材の価値にいまいち理解が及ばなかった王の末路でした。お金や宝石といった『物』は確かにその価値がわかりやすく、素晴らしいものに思えるのかもしれません。しかし、そうしたものが真の利益をもたらすかというと、そうではないことが歴史を紐解くと往々にしてあります。一方で威王は、人材を尊び、積極的に登用(魏で酷い目にあって流れてきた孫臏を登用したのも威王です。)することで自国の興隆という、国(組織)にとって最大の真の利益とも言うべきものを得ました。

この同時代に存在した、ある意味対照的な二人の王の故事も、また一つの学びとなるのではないでしょうか。