シリーズ:歴史に学ぶ(2) -三国時代の関羽と張飛-

シリーズ第2回となる今回は、「関羽(かんう)」と「張飛(ちょうひ)」という後漢(紀元25年~220年)末から魏・呉・蜀という三国が並立する三国時代(紀元220年~280年)という戦乱の時代に生きた2人の人物について、取り上げてみたいと思います。

中国の歴史について、今日、我が国で最も知られている時代と言えば、三国志でお馴染みの三国時代ではないでしょうか?

こうしたことから、歴史にあまり関心がないという人でも、桃園で義兄弟の契りを結んだ劉備・関羽・張飛の三兄弟(ただしこのエピソードは、後世に書かれた三国志演義という「物語」の創作であると言われています。)については、「名前は聞いたことある」という人が結構おられます。

時は200年近く続いた後漢王朝が、まさに倒れようとしている時代のことです。中国の長い歴史の中でも屈指の名君である光武帝劉秀(こうぶていりゅうしゅう)が興した後漢王朝も、時が経つにつれて硬直化や腐敗が進み、民衆を虐げ酷使するだけの存在に成り果てていました。そして、これに耐えられなくなった民衆はついに大反乱を起こします。これが世に言う黄巾の乱(紀元184年)です。この黄巾の乱が後漢王朝の致命傷となり、この乱自体は鎮圧されましたが、以降、後漢王朝は実質的な統治能力を失い、群雄が割拠する戦乱の時代に突入していくことになりました。

この時、劉備(りゅうび)という人は、関羽・張飛らと共に義勇軍を結成して黄巾の乱の鎮圧に参加することで、この戦乱の時代に名乗りを上げ、その後紆余曲折を経て三国時代の1国である蜀という国を興すことになります。関羽と張飛の二人は、この劉備の旗揚げの最初期からつき従い、配下の武人・将軍として劉備の創業を輔け、最後は非業の死を遂げることになった人物です。

では、関羽と張飛は何故非業の死を遂げることになってしまったのか?、これは二人の性格に原因がありました。

まず、関羽についてですが、この人は部下の兵卒に対しては優しく思いやりがあり人気があったのですが、同僚の士大夫(いわゆる支配階級)に対しては驕慢で対抗意識が強く、日頃から彼らを軽んじるところがありました。そして結局関羽は、敵地を攻めているときに普段から軽んじてきた同僚に支援を怠けられ、最後は敵地で孤立したところを敵軍につかまり首を刎ねられ殺されてしまいました。

次に、張飛についてですが、この人は士大夫を敬愛して彼らに対しては紳士的に振舞いましたが、部下の兵卒や身分の低い者に対しては非常に酷虐で、領地では行き過ぎた厳罰で死刑を乱発したり、毎日のように部下にあたり散らして笞打(むちうち)しては、その笞打した部下を周囲に侍らせたりしており、主君である劉備にもそのことを注意されたほどでした。そして結局彼は、そうした日ごろの行いがたたり、ある時部下に寝首を掻かれて殺されてしまいました。

関羽と張飛はもともと庶民の出身で、劉備に付き従って立身出世し士大夫の仲間入りをした叩き上げでしたが、それが彼らの性格(関羽の士大夫への対抗意識や張飛の身分の低い者たちへの侮蔑意識)の形成に影響を与えたのかもしれません。

それはともかくとして、関羽は部下を大切にしましたがエリートの同僚を軽んじ、張飛はエリートの同僚を尊びましたが部下を虐げ、それぞれの悪い面が結局自身の破滅につながってしまいました。人間関係とは非常に難しいものであり、常に最善となる形はありませんので、安易に「こうすれば良かった」と言うつもりはありません。ただ、関羽と張飛は結局道半ばで倒れたことから、どこかに改善すべき点があったことは確かです。両名の最後から何を思い何を学ぶか、それは人それぞれですが、こうした失敗談を素材として「何かを考えてみる」ということは非常に有意義であるように感じられます。