シリーズ:歴史に学ぶ(4) -項羽と劉邦-

シリーズ第4回となる今回は、秦の始皇帝率いる秦王朝(紀元前221年~紀元前206年)が倒れた後に、次の時代の覇権をめぐって争った項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)という、司馬遼太郎の小説でも有名なこの2人の人物について、取り上げてみたいと思います。

時代の流れとしては、中国全土を統一するも非常に短期間で滅んでしまった秦王朝の後に、秦王朝を倒した劉邦が、約200年(後漢王朝と合わせれば約400年)に渡る安定した前漢王朝(紀元前221年~8年)を打ち建て、これが漢族という民族名の由来になったと言われています。
しかし秦王朝打倒後、スムーズに前漢王朝に移行したわけではありません。そこには、ともに秦王朝を倒した劉邦と項羽の次代を賭けた激闘があり、この秦王朝打倒後に起こった劉邦と項羽の覇権争いは楚漢戦争と呼ばれ、当時の人口が半減したと言われるほどの激しい戦いでした。
この激しい戦いに最終的に勝利したのが劉邦ですが、当時の人々の多くは、まさか劉邦が勝つとは思っていなかったでしょう。なぜなら劉邦は、農夫の家に生まれ、遊び人で柄が悪く、学問を嫌い、戦いもあまり上手くはありませんでした。
一方の項羽は、代々将軍を輩出する名家に生まれ、早くから兵法に興味を持ち、戦えば向かうところ敵なしでした。実際、劉邦も楚漢戦争の最終局面である垓下の戦い(四面楚歌の故事で有名な戦いです。)で勝利するまでは、項羽にまったく勝てず連戦連敗でした。

それでは、なぜ劉邦が最終的な勝者となり、項羽は敗れたのでしょうか。
それは、端的に言ってしまえば、劉邦は人を使うのがうまく、項羽は下手だったからです。劉邦という人物は、はっきり言って欠点だらけの人ですが、不思議と人を引き付ける魅力があり、人の助言を良く聞き、人に任せるということができる人物でした(ただし、天下を取った後は豹変することになりますが・・・)。結果として、劉邦の元には漢の三傑と呼ばれる蕭何(しょうか)・張良(ちょうりょう)・韓信(かんしん)を筆頭に、多くの優れた人物が群がりました。人の上に立って大業を成す者の器とは、こういうものなのでしょう。
一方で項羽という人物は、連戦連勝の将軍でしたが、喜怒哀楽が激しく、好悪で物事を判断し(つまり、人を能力や成果ではなく好き嫌いで判断する。)、かなり子供っぽいところがありました。結果として、項羽の元からは次々と人が去り、軍師として項羽を支え続けたナンバー2の范増(はんぞう)さえも去ってしまいました。これでは、向かうところ敵なしのはずの項羽が、最終的に敗れてしまったのも納得です。

最後に劉邦が後年、自分がなぜ項羽に勝てたのかを語った話を紹介したいと思います。

「帷幄(いあく:本陣のこと)の中に謀を巡らし、千里の外に勝利を決するということについては、吾は張良に及ばない。内政を整え、民生の安定を図り、糧道(りょうどう:前線への補給・補給路)を途絶えさせないことについては、吾は蕭何に及ばない。百万もの大軍を自在に指揮して勝ちをおさめるということについては、吾は韓信に及ばない。この三人はいずれも傑物と言って良い。吾はその傑物を使いこなすことができた。これこそ、吾が天下を取った理由だ。項羽には范増という傑物がいたが、彼はこの一人すら使いこなせなかった。」(漢書 高帝紀より)