シリーズ:歴史に学ぶ(7) -故事成語の由来③-

シリーズ第7回となる今回も、前回に引き続き故事成語の由来を取り上げてみたいと思います。

◇ 四面楚歌(しめんそか)

シリーズ第4回で取り上げた、秦王朝(紀元前221年~紀元前206年)を滅ぼした両雄の一角である項羽(こうう)は、その後次代の覇権をかけて両雄のもう一角である劉邦(りゅうほう)と争い、終始戦いを有利に進めていましたが、最後の大勝負となる垓下の戦い(がいかのたたかい)で一敗地に塗れ、歴史の表舞台から去っていきました。百戦百敗の劉邦が最終的な勝利者となり、百戦百勝の項羽が最終的な敗者となったところに、成功の難しさや歴史の面白みを感じます。

ところで、この最後の大勝負となった垓下の戦いには面白い話があります。まず、この垓下の戦いへと至った経緯ですが、項羽と劉邦の一連の争いは楚漢戦争(そかんせんそう)とも呼ばれ、当時の人口が半減したとも言われるほどの激しい争いであったため、戦争の末期になると両雄ともに疲れ果ててしまい、ついに天下を二分する盟約を結んで、矛を納め、それぞれ本拠地に帰還することになりました。しかし、この帰還途上で劉邦は、配下の謀臣から「項羽が疲れている今こそ項羽を滅ぼす好機です」と進言され、これを容れた劉邦は盟約を反故にし、突如反転して帰還途上の項羽を襲いました。そして、各地を転戦した両軍は、最終的には垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県のあたり)の地で決戦することになりました。

この決戦は一進一退の攻防でしたが、徐々に数で勝る劉邦の軍が優勢となり、最終的には劣勢となった項羽の軍は劉邦の軍に包囲されてしまいます。こうして、すっかり周りを取り囲まれてしまった項羽のもとに、ある夜、包囲している劉邦の軍の四面から歌が聞こえてきました。その歌はなんと項羽の故郷の楚の歌だったのです。これを聞いて項羽は、「嗚呼、ついに私の故郷(楚)の人々まで、劉邦に下ってしまったのか…」と嘆き、戦意を喪失し、僅かな手勢とともに密かに垓下の地から逃走し、最終的には追手に迫られ自刃して果てました。一世の雄の最後です。

余談ですが、この当時まだ劉邦は項羽の本拠地である楚を下しておらず、劉邦の軍にそれほど多数の楚人の兵がいたとは思われないので、四面から聞こえてきた楚の歌は、項羽の戦意をくじくための一計だったであろうと思われます。包囲して圧倒的優勢を手にしたとはいえ相手は百戦百勝の猛将項羽、劉邦は項羽と直接激突するのがよほど恐ろしかったのでしょう。

この故事から、周囲が敵だらけの孤立無援で窮してしまった状況を「四面楚歌」と言うようになりました。