シリーズ:歴史に学ぶ(12)-フランスのルイ16世①-

シリーズ第12回となる今回は、前回取り上げたマリア・テレジアの娘であるマリー・アントワネット(1755年~1793年)の夫であり、フランス革命により非業の最期を遂げたフランス王国ブルボン朝(1589年~1792年)の王ルイ16世(1754年~1793年、ブルボン朝最後の王と言いたいところですが、将来的に王政復古により、一時期ブルボン朝が復活します。)を取り上げたいと思います。

フランス王国(カペー朝:987年~1328年、ヴァロワ朝:1328年~1589年、ブルボン朝:1589年~1792年、ヴァロワ家もブルボン家もカペー家の分家で、それぞれ、宗家の嫡流が断絶したことで王位を継承することになりました。)という国は、西ローマ帝国(395年~476年)の崩壊により分裂状態にあったヨーロッパ世界を統一したフランク王国(481年~843年、ヨーロッパ世界を統一後、兄弟の分割相続により西フランク、東フランク、中央フランクに分裂し、この内西フランクが後にフランス王国となりました。)の流れを色濃く受けづくヨーロッパ諸国の中でも伝統ある大国であり、ルイ16世はその伝統ある大国の王に19歳という若さで即位しましたが、当時のフランス王国は先々代の太陽王ルイ14世(1638年~1715年)、先代のルイ15世(1710年~1774年)の放漫極まる財政の影響で極めて深刻な財政難の状態にあり、ルイ16世は即位早々この難題への対応を迫られることになります。

ルイ16世はという人物は、革命を起こされ最後は断頭台(ギロチン)の露と消えたこともあって、よく典型的な暗君であるかのように言われることがあります。確かにルイ16世は、即位早々勃発したアメリカ独立戦争に、アメリカを支援するという形で深入りし過ぎて財政赤字を更に拡大させるという誤りを犯してしまいますが、基本的には自国フランスが財政的に困窮しているという認識を即位当初から持っており、また、改革に着手し、この危機的状況を打破しようという強い意欲も持っていました。

そこで、ルイ16世は即位当初から、ジャック・テュルゴー(1727年~1781年、近代経済学の父アダム・スミスに影響を与えた人物とも言われています。)や、ジャック・ネッケル(1732年~1804年、貴族階級ではなくブルジョワ、つまり平民階級出身の人物です。)といった財政に明るい人材を抜擢して財務総監(または財務長官、実質的にはどちらも同じです。)に登用するなどしましたが、彼らの財政再建策は、いずれも名税特権等の巨大な既得権益を持つ高位聖職者や大貴族に不利益をもたらすものであり、結局は彼ら保守派の猛反発にあい、テュルゴーやネッケルはいずれも失脚に追い込まれ、財政再建策は頓挫してしまいました。かねてから重税や物価高騰、食糧難等に苦しんでいた平民は、こうした国政の停滞に次第に怒りや不信を募らせていきます。

また、国王と(高位聖職者や大貴族を中止とする)保守派の対立をきっかけとして開催された三部会(国王が必要に応じて招集し、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民からそれぞれ代表者が出席して、課税問題を中心に国政の様々な問題について議論が行われる身分制議会)が行き詰ると、失望した第三身分(神父のシエイエス、伯爵のミラボーといった、本来、第一身分や第二身分だったのに、それぞれ自身の身分から離脱して第三身分に合流した人もいます。)の代表者たちは三部会から離脱し、第三身分を中心とする新たな議会、国民議会(後に憲法制定国民議会に改称、もはや国王政府に国政を任せられないと考えた第三身分の代表者たちが、憲法を成立させ自らが国政を動かすべく発足した議会。)を発足させます。

今回も長くなりましたのでここで一区切りとし、続きは次回とさせていただきます。