シリーズ:歴史に学ぶ(13)-フランスのルイ16世②-

シリーズ第13回となる今回は、前回に引き続き、革命によって非業の死を遂げたフランスのルイ16世を取り上げてみたいと思います。

前回は革命前夜のフランスの状況を、簡単にご紹介しましたが、そうした一連の流れを受けて、国王政府と平民(と革新派の貴族・聖職者)は次第に乖離してゆきました。そして、ついに1789年7月14日、様々な行き違いや強硬派(国王政府内にあって、不穏分子の弾圧に積極的な王族・貴族たちの集団)の暴走等から、パリ市民が大挙してバスティーユ監獄を襲撃するという事件が起こり、ここにフランス市民革命が勃発します。この革命勃発からフランス第一共和政(1792年~1804年)成立までの経緯は省略しますが、この革命の最中にも様々な行き違いや国王ルイ16世の判断ミス、不適切な対応・行動などが重なり、最終的にはヴァレンヌ事件(革命勃発後、身の危険を感じた国王一家が、革命勢力の跋扈するパリから脱出し、国内の国境沿いのモンメディの町を目指したものの、途上のヴァレンヌの町で革命勢力に拘束されパリに連れ戻された事件。ルイ16世は、モンメディで革命勃発後他国に亡命した貴族や妻であるマリー・アントワネットの実家のオーストリアの軍と合流し革命勢力に対抗する予定でしたが、これが平民とりわけ革命勢力にとっては反革命的な裏切り行為でした。)をきっかけとしてルイ16世は革命勢力によって王権を停止され、国民公会(王権の停止によるフランス王国ブルボン朝の終焉を機に、男子普通選挙に基づいて開設された議会で、会期二日目に共和国宣言を行い、ここにフランス第一共和政が成立しました。)の評決により処刑されてしまいました。

ルイ16世は、決して民を虐げるタイプの君主ではなく、現実が見えない無能なタイプの君主でもありませんでした。また、科学等の学問にも興味を示し、政策的には上記で触れた特権階級の既得権益の削減と財政再建以外にも、拷問や農奴制の廃止、国内の異宗教・異宗派間(カトリック、プロテスタント、ユダヤ教徒等)の融和等々の開明的な政策に取り組んだ人であり、安定した時代であれば恤民の心を持つ「心優しい王様」と言われたのではないかと思います(実際、ヴァレンヌ事件でその人気が失墜するまでは、当時の平民の間でルイ16世個人の人気は非常に高く、国王政府が平民の支持を失ってなおそれは変わりませんでした)。少なくとも、政治にほとんど興味を示さず、多くの愛人と享楽的な生活を送ることに終始し、前回及び前々回のマリア・テレジアの記事で触れたオーストリア継承戦争(1740年~1748年)と続く七年戦争(1756年~1763年)への介入で悉く対応を誤り、国益を大いに損なった先代のルイ15世より、君主としての資質は間違いなく優れていました。ですが、ルイ16世は決断力に欠けるところがあり、迅速果断が求められ、時として非情な決断(例えば、時として反対派や不満分子を徹底的に弾圧し、排除すると言ったことが求められることもあり、自身が率いる集団の維持という観点から見れば、それは「正しい」ということもあります。)を下さねばならない激動の時代にあっては、君主としての適性を欠いていた感もあり、誹謗中傷に類するものも多々あり、またその影響もあるとはいえ、ルイ16世を暗君の評する声が存在するのも、わからないではありません。

個人的な感想ですが、ルイ16世個人は善良で誠実な人格の持ち主だったと思いますし、好感が持てる人物です。また、政治に対しても無関心だったわけではなく、自国のおかれている現状を理解する認識力もあり、改革に着手する積極性もありました。しかし、それだけでは、「良きリーダー」とは言えません。リーダーに求められるのは、常に「その時代の状況に合った資質」と「結果」です。そういう意味では、ルイ16世はやはり暗君だったのかもしれません。安定した時代であれば「良きリーダー」と評価されたかもしれない資質を持った人が、激動の時代にあっては、一転して「悪いリーダー」と評価されてしまうところに、リーダーの難しさが表れているのではないでしょうか。

※ところで余談ですが、中国の三国時代(220年~280年、魏・呉・蜀の三国分裂の時代)に、魏(ぎ)という国を建てた曹操(そうそう)という人物がいたことをご存知でしょうか。この曹操について、当時の有名な人物鑑定家であった許劭(きょしょう)という人物がこう評しています。曰く、「清平の奸賊にして、乱世の英雄である(後漢書)」(三国志という書物では、「治世の能臣にして、乱世の奸雄である」と評したとされており、多少色合いの違う評価をしたことになっています)。つまり、曹操と言う人物は、安定した時代にあっては世を乱す賊となるが、激動の時代のあっては世を正す英雄となると評したということです。そして、三国時代はまさに激動の時代であり、曹操が建てた魏(とその基盤を受け継いだ晋)が、この乱れた分裂時代を収束させていくことになります。曹操はまさに、その「時代の状況に合った資質」を持ち、優れた「結果」を残したリーダーでした。