シリーズ:歴史に学ぶ(6) -故事成語の由来②-

シリーズ第6回となる今回は、前回に引き続き故事成語の由来を取り上げてみたいと思います。

◇ 五十歩百歩(ごじっぽひゃっぽ)

シリーズ第3回で取り上げた、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)の魏(ぎ)という国の君主である恵王(けいおう、この頃は他国に攻められ梁という地に落ち延びていたので、梁の恵王とも呼ばれます。)の下に、ある時性善説で有名な儒者(じゅしゃ)の孟子(もうし)が訪れ、恵王と対談しました。

この対談で恵王は孟子に、自分は善政を施いているにも関わらず自分の国の人口が増えず、たいした善政も施いていない隣国の人口が減らないのを嘆いて(つまり、なぜ自分の善政を慕って我が国へ移住してこないのかということです。)、その理由を問いました。

これに対して孟子は次のように答えます。

「王は戦いがお好きですから、戦いで例えさせてください。進軍の太鼓がなり、武器が接するほどの戦いになってから、鎧を棄てて、武器を引きずって逃げ出すものがでて、ある者は百歩逃げてから止り、ある者は五十歩逃げてから止りました。五十歩逃げた者が、百歩逃げた者を笑ったとしたらどうでしょう」

問われた恵王は、「それは駄目だ、百歩でなかったというだけで、逃げたことには変わりない」と言います。

ここで孟子が言いたかったことは、恵王が殊更に善政と主張するその政治は、実は隣国がやっている政治と程度の差はあっても本質的な違いはなく、あるべき善政すなわち「王道」とはそういうものではないということでした。

孟子という人は、君主が「徳」によって国を治める「王道」政治を理想としていました。しかし、当時は春秋戦国時代の後半部分である戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)、つまりは秦の始皇帝による統一前夜で、国同士の争いは激化の一途をたどっており、各国は警察力や刑罰といった「力」によって国を治め、武力・軍事力という「力」によって他国を攻め取り、あるいは服属させるという「覇道」を突き進んでいました。こうした温かみのない政治と、国同士の絶え間ない戦争の狭間で苦しんでいたのが人民です。孟子は、まず人民を尊いとし、その次に社稷(しゃしょく、国家のことです。)、君主はその下に過ぎないとした人でした。そんな孟子には、当時の状況がこう映ったのではないでしょうか。どの君主も、温かみのない政治と絶え間ない戦争で、人民に途端の苦しみを与えるというこの上ない悪政を施いておきながら、一方で少々善いことをしたからといってその多寡にどれほどの違いがあるのかと(恵王の問いに対して孟子が「王は戦いがお好きですから…」と切り出したところにも、孟子なりの皮肉が窺えます。)

若干横道に逸れてしまいましたが、この故事から、多少の違いはあっても本質的な違いはないことを「五十歩百歩」と言うようになりました。