雑記

シリーズ:歴史に学ぶ(14)-フランスのマクシミリアン・ロベスピエール-

シリーズ第14回となる今回は、フランス革命を主導した一人であり、前回及び前々回取り上げたフランス王国ブルボン朝(1589年~1792年)の王ルイ16世(1754年~1793年)の処刑を強硬に主張した人物でもある、革命の旗手マクシミリアン・ロベスピエール(1758年~1794年)を取り上げたいと思います。

ロ ベスピエールは法服貴族(当時のフランスの貴族制には、帯剣貴族と法服貴族という区分があり、帯剣貴族は世襲が認められている伝統ある従来からの貴族であるのに対し、法服貴族は売官制に基づき高位の官職を購入した元平民で、原則世襲は認められず一代限りのものであり、貴族階級と平民階級の中間の存在と言えます。)の家に生まれましたが、父が身を持ち崩したため家は貧しく苦学して法学を修め、その後は弁護士として活動し、30歳の頃には三部会(フランス革命 前夜のこの時期に、ルイ16世により開催された議会。詳しくは前回及び前々回の記事参照。)の第三身分(平民)の代表議員の一人として、政治の世界へと転身してゆきます。やがてフランス革命が勃発すると、ロベスピエールは革命勢力の一人として積極的に活動し、革命勢力の中でも次第に頭角を現します。

その後ロベスピエールは、王政を打倒し成立した共和国(フランス第一共和政:1792年~1804年)政府・議会において次第に影響力を強めてゆき、ついには主導権を握って革命の理念の貫徹を目指して更なる革命の徹底を推進してゆくことになります。では、彼ら革命勢力の目指す革命の理念とはなんであるのか。 これは、一口に革命勢力と言っても一枚岩ではなく、その思惑も異なるため(詳細は次回参照)一概には言えませんが、ロベスピエールとその協力者・支援者たち(ロベスピエール派)の目指したものとしては、階級の存在しない自由で平等な社会の確立、より具体的にはお互いに自由で平等な自立した小生産者(手工業 者、職人、農民等)たちが主役の社会の確立と言えると思います。

ロベスピエールという人は、清廉潔白な人物(政府・議会における主導権を 握ってからも、私利私欲に駆られるようなことは一切なく、終生、質素な暮らしぶりを堅持しました。)であり、ロベスピエールが目指したもの、その理念も素 晴らしいものであったのかもしれません。しかし、その実現の為に選択した方法・手段は恐怖政治(フランス語でテルール、テロの語源です。)、つまりは障害 の力による排除と抑圧でした(この恐怖政治の犠牲となり処刑された人々は、少なくとも数千、一説には数万にも上ると言われています)。

もちろんこの恐怖政治はロベスピエール一人が実施したものでも推進したものでもなく、後に反ロベスピエール派に与する者や国民の大多数も含めて多くの人間がこれに関わり、また当初はこれを支持したのであって(というのも当時は、王政の復活を目指す国内の王党派や共和政という新しい体制を認めず戦争を仕掛けてくる諸外国等、革命を損なう危険性のある障害が多く、過渡期にあってはそれらを力で排除し抑圧するのもやむなしという認識が強かったためです。)、一般に言 われてるような全てがロベスピエールの独裁と暴走の結果であったとするのは完全な誤解です。しかし、主導的な立場で恐怖政治を実施、推進したのもやはりまた ロベスピエールとその協力者たち(ロベスピエール派)であり、最終的には行き過ぎた恐怖政治に当初はこれを支持していた国民さえも嫌気が指し、それを好機と見た反ロベスピエール派のクーデター(テルミドールのクーデター)によって、ロベスピエールとその協力者たち(ロベスピエール派)は逮捕され、処刑され てしまいました。

その後、フランスはロベスピエールを排除した者たちが主導権を握り、5人の総裁が行政を担当する総裁政府の時代(1795 年~1799年)に入りますが、そこにはすでに革命の理念は無く、国家を治めるに足る定見もなく腐敗を極める総裁政府に国民は失望し(総裁の一人、ポー ル・バラスなどは悪徳の士などと言われています。)、ついには国民は一人の英雄に期待することになります。その英雄こそ、ナポレオン・ボナパルト (1769年~1821年)、後のフランス帝国初代皇帝ナポレオン1世です。そして、最終的にはナポレオンは国民投票によって(つまりは国民の支持によっ て)皇帝に選ばれ、フランスは帝政(第一帝政:1804年~1815年)へと移行し、ここに共和国は倒壊しました。ロベスピエールが、夢見た共和国は完全に失われたのです(もっとも、ロベスピエールが目指した革命の理念は総裁政府の時代にすでに失われていますが)。その目指すところは仮に素晴らしいものであったとしても、あるいは正当であったとしても、方法・手段を間違えれば、形振り構わず守り成し遂げようとしたものが逆に全てが失われてしまうというのは、なんとも皮肉な結果であり、それだけに適切なプロセス、そこに至るまでの道筋を慎重に検討し選択することの重要性を感じさせます。

前回及び前々回のルイ16世から見てきたフランス革命期は、次回、最後に取り上げるナポレオン・ボナパルトで締めたいと思いますので、宜しくお願いします。

それでは最後に、ロベスピエールの有名な一言をご紹介して終わりたいと思います。
「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」

 

※余談:フランス革命期の革命諸勢力の推移
一口に革命勢力と言っても彼らも一枚岩ではなく、当初こそ多くがジャコバン・クラブという政治グループの下にまとまっていた彼らも、次第に意見の相違から分派してゆき、また、時期(革命初期・中期・後期)によってもその構成が大きく変わります。次で取り上げるのは、その中でも主要な各時期のグループです。

(1)革命初期:立憲君主派と共和派の対立
①立憲君主派(フイヤン派)
主に、革命勢力に合流した第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)を主要メンバーとして構成され、君主制を維持しつつも王権の絶対性は否定し、国政の運営は議会に委ねられるべきである(いわゆる「君臨すれども統治せず」という状態のこと。)とする勢力です。
革命最初期において複数存在した立憲君主派が集合し、後にフイヤン派を結成。革命初期においては、ルイ16世個人には同情を寄せる第三身分(平民)が多かったこともあり多数派を形成するも、ヴァレンヌ事件(詳しくは、前回及び前々回の記事参照。)をきっけかとしてルイ16世の人気が失墜すると、君主制の維持を主張するフイヤン派も衰退。最終的には、多くのメンバーが反革命的として逮捕され、あるいは亡命を余儀なくされ、フイヤン派は壊滅しました。

②共和派(穏健的共和派のジロンド派及び急進的共和派のジャコバン派)
主に、第三身分(平民)のメンバーで構成され、王権の絶対性は否定し、国政の運営は議会に委ねられるべきであるとする点では立憲君主派と同様ですが、共和派は君主制の維持そのものを認めない勢力です。
ただし、共和派と言っても一枚岩ではなく、後に革命に対する考え方の違いからジロンド派とジャコバン派に分裂してゆきます。

(2)革命中期:ジロンド派とジャコバン派の対立
①ジロンド派(穏健的共和派)
主に、ブルジョワジー(ざっくり言うと、近代以降都市部を中心として急成長した平民の有産階級のことです。)のメンバーと支持者を主体とした勢力です。
革命に対する姿勢としては、経済人たるブルジョワジーが主体であったことから主に経済活動の自由、財産権の保障等を重視しており、ヴァレンヌ事件をきっかけとして君主制が廃止され、国民公会を中心とした共和制が成立した時点では多数派を形成していましたが、この時点ですでにその目的(経済活動の自由、財産権の保障等)がある程度達成されたためか、以降は革命の落としどころを探して政策に積極性を欠くようになり、また、軍事的・経済的に失策を重ねたことで支持を失い、ジャコバン派にとって代わられます。最終的には、多くのメンバーが反革命的として逮捕され、ジロンド派は壊滅しました。

②ジャコバン派(急進的共和派)
フイヤン派やジロンド派の多くのメンバーも当初はジャコバン・クラブの一員だったので、革命最初期においては彼らもジャコバン派と言えますが、ここでのジャコバン派とは、立憲君主派の諸派や穏健的共和派のジロンド派が脱退した後も、ジャコバン・クラブに残り続けたメンバーのことで、主に理想主義的な若者を中心としたメンバーとサン・キュロット(ざっくり言うと、自営業者、職人、労働者等の平民の無産階級のことです。)の支持者を主体とした勢力です。
革命に対する姿勢としては、革命の理念の貫徹を重視しており、革命の推進に対して腰砕けとなったジロンド派を追い落とし、政治権力を一手に握ってジャコバン派の独裁体制、恐怖政治を確立しました。一見、彼らが重視する革命の理念(ざっくり言うと、何ものにも束縛されない独立した自由な人々による市民社会の構築)と独裁体制、恐怖政治は矛盾するように思えますが、フランス革命はそもそも暴力革命であって革命のための暴力を容認しており、革命の過渡期にあって革命の理念を損なう恐れがある場合は、実力をもってこれを排除してでも革命の理念を守り抜くべきであるというのが彼らの主張です。その為に彼らは、革命中期に設置された革命裁判所の機能を大幅に強化し、「彼らにとって」反革命的な人間を次々とこの裁判所で弁護なしの裁判にかけ、処刑しました。前回取り上げたロベスピエールも、ジャコバン派に属します。
ただし、ジャコバン派もまた一枚岩ではなく、後にエベール派、ダントン派、ロベスピエール派に分裂してゆきます。

(3)革命後期:ジャコバン派内の内部対立と革命の終焉
①エベール派(矯激・極左派)
ジャック・ルネ・エベール(1757年~1794年)をリーダー(というよりは代表的なメンバーと言った方が正確ですが。)とし、現在の恐怖政治でさえ生温く(といっても、この時点でもすでにかなりの人間が処刑台の露と消えています。)、革命の推進のためには更なら恐怖政治の強化が必要であると主張した勢力です。
議会での非行、民衆蜂起の扇動等数々の暴走行動を起こしたため、ジャコバン派内にさえ多くの敵を作り、最終的にはそのあまりの過激思想を危険視されて、ロベスピエール派、ダントン派によって粛清され、エベール派は壊滅しました。

②ダントン派(寛容派)
ジョルジュ・ダントン(1759年~1794年)をリーダーとし、ジャコバン派の恐怖政治に対しては否定的であり(ブルジョワジーとのつながりも深く、ジャコバン派でありながら、主張・立場的にはジロンド派に近い若干毛色の違うグループです。)、恐怖政治の廃止と革命の終了を主張した勢力です。
ジロンド派に近い主張・立場と、ダントン個人に人気があったことから、民衆への影響力の強さ恐れたロベスピエール派によって粛清され、ダントン派は壊滅しました。

③ロベスピエール派(中道左派)
今回取り上げたマクシミリアン・ロベスピエールをリーダーとし、(エベール派ほど過激ではないにしても)革命の理念の貫徹を強く主張した勢力です。
そのために障害となる勢力(ジロンド派やジャコバン派内のエベール派、ダントン派等)を次々と排除し、政府・議会における主導権を握って恐怖政治を加速させてゆきますが、最終的には行き過ぎた恐怖政治に国民も嫌気がさし(よく誤解されていますが、国民、特に無産階級のサン・キュロットは当初は恐怖政治を支持しており、最初から一部の暴走や独裁の結果として恐怖政治が始まったとするのは完全な誤りです。)、それを好機と見た反ロベスピエール派のクーデター(テルミドールのクーデター)によって、ロベスピエールを含む主要メンバーが逮捕され処刑されることでロベスピエール派は壊滅しました。
このロベスピエール派の壊滅をもって、フランスは定見なく腐敗を極め、革命の理念も失われた総裁政府の時代へと突入してゆきます。